武士道と自衛隊と勝海舟
2004年4月7日
宇佐美 保
イラク復興支援特別措置法に基づいて、自衛隊がイラク南部のサマワに派遣されましたが、サマワでの活動を指揮するイラク復興支援群長の番匠幸一郎一等陸佐は「日本人らしく武士道の国らしく規律正しく仕事をする」と語っていました。
この様に、最近は、武士だサムライだの言葉が日本国中を飛び交っています。
でも、「武士道」の本質は?
そこで、新渡戸稲造の著作『武士道:三笠書房発行』を覗いてみましょう。
先ず、第一版への序文は、次のように書かれています。
約十年前、著名なベルギーの法学者、故ラヴレー氏の家で歓待を受けて数日を過ごしたことがある。ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。 「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」とこの高名な学者がたずねられた。私が、「ありません」という返事をすると、氏は驚きのあまり突然歩みをとめられた。そして容易に忘れがたい声で、「宗教がないとは。いったいあなたがたはどのようにして子孫に道徳教育を授けるのですか」と繰り返された。 その時、私はその質問に愕然とした。そして即答できなかった。なぜなら私が幼いころ学んだ人の倫たる教訓は、学校で受けたものではなかったからだ。そこで私に善悪の観念をつくりださせたさまざまな要素を分析してみると、そのような観念を吹きこんだものは武士道であったことにようやく思いあたった。 |
確かに、この新渡戸稲造の観点に立てば、「キリスト教」「イスラム教」等と宗教的な対立が激しい今の世界に於いて、「武士道」を行動の規範とし宗教的束縛の少ない日本人の果たす役割が期待されて当然です。
しかし、派遣される自衛隊員のお一人は、“私達は戦う事のプロですから、命令されれば何処へでも行きます”とも語っていました。
確かに、『武士道』には「義を見てせざるは勇なきなり」の言葉が出てきますが、この件に関しては次のように書かれています。
勇気は、義によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はないとされた。孔子は『論語』の中で、彼がつねづね用いているように、否定によって命題を明らかにする方法で勇気を定義づけている。すなわち「義を見てせざるは勇なきなり」と。 この格言を肯定的にいいなおすと「勇気とは正しいことをすることである」となる。あらゆる種類の危険を冒し、生命を賭して死地に臨むこと!これはしばしば勇猛と同表され、武器をもつことを職業とする者にあっては、そのような向こう見ずの行為が不当に賞讃されている。シェイクスピアはそれを「勇猛の私生児」と名づけた。 しかし、武士道の教えるところはこれと異なる。死に値しないことのために死ぬことは「犬死」とされた。水戸義公は述べている。 「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其場所を引退いて忠節に成る事もあり。其場所にて討死して忠節に成る事もあり。之を死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり」と。 しかし彼は「人が恐れるべきことと、恐れるべきでないことの区別」こそ勇気である、と定義したプラトンの名を聞いたはずはなかった。西洋で説かれていた道徳的勇気と肉体的勇気の区別は、私たち日本人にあっても昔から広く認められていたのである。 |
と書かれていますように、自衛隊員が戦うプロだからと云って、「命令ならば何処へでも行く」というのは「武士道にもとる行為」なのです。
この事は、次に掲げる“サムライの真の「忠義」はここにある!”の件を見れば、更にはっきりと判ります。
武士道は私たちの良心を主君や国王の奴隷として売り渡せとは命じなかった。…… 己の良心を主君の気まぐれや酔狂、思いつきなどの犠牲にする者に対しては、武士道の評価はきわめて厳しかった。そのような者は「倭臣」すなわち無節操なへつらいをもって主君の機嫌をとる者、あるいは「寵臣」すなわち奴隷のごとき追従の手段を弄して主君の意を迎えようとする者として軽蔑された。 |
ですから、「命令ならば何処へでも行く」というのでは、「サムライ」ではなくて、「倭臣」「寵臣」の類なのです。
そして悲しい事には、我が国の首相、小泉氏は「サムライ」ではなく、ブッシュ大統領の「倭臣」「寵臣」であると感じられるのです。
勿論、小泉氏だけでなく、私達も『武士道』を改めて読み直し、反省しなくてはいけないのです。
名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼時のころから教えこまれるサムライの特色をなすものであった。…… 高名――人の名声、それは「人を人たらしめている部分、そしてそれを差し引くと残るのは獣性しかない」という考えはごく当然のことと思われた。その高潔さに対するいかなる侵害も恥とされた。そして「廉恥心」という感性を大切にすることは、彼らの幼少のころの教育においても、まずはじめに行なわれたことであった。 「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくはないのか」などという言葉は過ちをおかした少年の振舞いを正す最後の切札であった。子が母の胎内にいる間に、その心があたかも名誉によってはぐくまれたかのように、この名誉に訴えるやり方は子供の心の琴線にふれたのである。なぜなら、名誉は強い家族意識と結びついているので、真の意味では出生以前から影響を受けている、といえるのである。 …… まことに廉恥心は人類の道徳意識の出発点だと私には思えるのである。「禁断の木の実」 を口にしたために、人間が蒙らねばならなかった最初にして最後の罰は、産みの苦しみでもなく、イバラやトゲの痛さでもなく、私にいわせれば羞恥の感覚の目覚めであった。 |
この様に、新渡戸稲造は「武士道」はもとより「人類の道徳意識」の出発点として、“「廉恥心」即ち、「人に笑われるぞ」との言葉が少年の振舞いを正す最後の切札であった”と述べているのです。
そして、この「廉恥心」にしろ「人に笑われるぞ」との言葉は、健全なる世間の目(「世間体」の存在)がなくては成り立たないと私は思うのです。
従って、子供の悪行に対して、“うっかり注意したら逆ギレされて何をすれるか判らないし、危険だから注意しない”というのでは、私達は世間の役割を放棄している事になります。
ですから、私は愛川欽也氏を信用しないのです。
彼は、朝日ニュースターの「パックインジャーナル」の司会をしていますが、以前何度も、番組出演者(金美齢さん等)が車内の子供の悪行を注意したとの話を聞くたびに、
“金さん、そんな事したら、命が危ないですよ!よしなさい!よしなさい!” |
と発言していました。
こんな卑怯な人が、社会批判を行っている番組の司会をしていて良いのかしら?と常々思っているのです。
更に、愛川氏ばかりを例にとって悪いのですが、愛川氏はいわば、ニュースステーションの久米宏氏、news23の筑紫哲弥氏の役割を担っていながら、“私の本業は役者ですから、日頃の政治経済問題の勉強はしていません。単なる床屋の親父です”と自己弁護をしていました。
(でも、最近はご勉強なさっているのか。愛川氏はこの台詞を余り吐かなくなりました。)
私は、この愛川氏の言葉を聞くたびに、『武士道』に書かれている“名誉はこの世で「最高の善」である”の件を思い出します。
寛容、忍耐、寛大という境地の崇高な高みにまで到達した人はごく稀であった。このことは知っておかねばならない。名誉をかたちづくっているものが、いったい何であるのか。そのことについて、明白で一般化したものが何一つ語られていなかったことは、たいへん残念なことであった。名誉は「境遇から生じるものではなく」て、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ、ということに気づいているのは、ごくわずかの高徳の人びとだけである。…… |
愛川氏の件は別として、
“名誉は「境遇から生じるものではなく」て、それぞれが自己の役割をまっとうに努めることにあるのだ”
の言葉から、私達の平和憲法を思い浮かべます。
そこでの、私達の“自己の役割”とは、“平和憲法を維持してゆく事”なのです。
そして、この“自己の役割(平和憲法を維持してゆく事)をまっとうに努めること”によって、憲法前文にある
“われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ” |
に符合するのです。
更に、『武士道』に於ける最も重要と私が思っている点「武人の究極の理想は平和である」を最後に抜粋します。
武士道は適切な刀の使用を強調し、不当不正な使用に対しては厳しく非難し、かつそれを忌み嫌った。やたらと刀を振りまわす者は、むしろ卑怯者か、虚勢をはる者とされた。沈着冷静な人物は、刀を用いるべきときはどのような場合であるかを知っている。そしてそのような機会はじつのところ、ごく稀にしかやってこないのである。
大義もなく、イラクにかってに攻め込んだ米国、そして、米国を支持した我が国は、“やたらと刀を振りまわす者は、むしろ卑怯者か、虚勢をはる者”ではありませんか?!
そして、この続きを掲げます。
暗殺、自殺、あるいはその他の血なまぐさい出来事がごく普通であった、私たちの歴史上のきわめて不穏な時代をのり越えてきた勝海舟の言葉に耳を傾けてみよう。彼は旧幕時代のある時期、ほとんどのことを彼一人で決定しうる権限を委ねられていた。そのために再三、暗殺の対象に選ばれていた。しかし彼はけっして自分の剣を血塗らせることはなかった。 勝舟は後に独特の江戸庶民的語り口で懐旧談を語ったが、その中で次のように語っている。 「私は人を殺すのが大嫌ひで、一人でも殺したものはないよ。みんな逃して、殺すべきものでも、マアマアと言って放って置いた。それは河上彦斎が教えてくれた。『あなたは、そう人を殺しなさらぬが、それはいけません。南瓜でも茄子でも、あなたは取ってお上んなさるだらう。あいつらはそんなものです』と言った。それはヒドイ奴だったよ。しかし河上は殺されたよ。私が殺されなかったのは、無辜を殺さなかった故かも知れんよ。刀でも、ひどく丈夫に結えて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは斬らぬといふ覚悟だった。ナニ蚤や虱だと思へばいいのさ。肩につかまって、チクリチクリと刺しても、ただ痒いだけだ、生命に関りはしないよ」(『海舟座談』) これが、艱難と誇りの燃えさかる炉の中で武士道の教育を受けた人の言葉であった。よく知られている格言に「負けるが勝ち」というものがある。この格言は、真の勝利は暴徒にむやみに抵抗することではないことを意味している。また「血を見ない勝利こそ最善の勝利」とか、これに類する格言がある。これらの格言は、武人の究極の理想は平和であることを示している。 この崇高な理想が僧侶や道徳家の説教だけに任され、他方、サムライは武芸の稽古や、武芸の賞揚に明け暮れたのはまことに残念きわまりない。このようなことの結果、武士たちは女性の理想像を勇婦(アマゾネス)であれ、とするに至った。ここで女性の教育、地位という主題に数節をさくことは無駄ではなかろう。 |
この勝海舟の言動を、“自衛隊の実質は軍隊である”とか、“言葉と実体が合致するように、憲法を改正して自衛隊を軍隊と改名すべし!”とほざく小泉首相らは勝海舟に多くを学ぶべきです。
「刀でも、ひどく丈夫に結えて、決して抜けないようにしてあった」との勝海舟の「決して抜けない刀」は、全く我が国の自衛隊そのものではありませんか!?
(勝海舟は、「丸腰(全く武装していない状態)」ではなくて「決して抜けない刀(自衛隊)」を帯びていたのです。)
そして、『武士道』に於ける「負けるが勝ち」「血を見ない勝利こそ最善の勝利」「武人の究極の理想は平和」を私達は、改めて肝に銘じるべきです。
更に、『武士道』から、「名誉、勇気、そして武徳のすぐれた遺産を守れ」の件も抜粋致します。
人間の闘争本能というものは普遍的で、かつ自然なものであり、また高尚な感性、男らしい徳目であるとしても、それは人間性のすべてではない。もっと神々しい本能、すなわち愛するという本能が闘争本能の下にある。 私たちは神道や、孟子、さらに王陽明が明確にそのことを教えていることを見てきた。しかし、武士道や、戦闘者タイプの道徳は疑いもなく、直接的な現実の欠くべからざる問題にのみとり組まざるをえなかった。そのため、しばしばこの愛するという本能の存在を正当にとり扱うことを閑却してきたのである。 近年、とみに生活にゆとりが生じてきている。武士の訴えてきた使命よりも、もっと気高く、もっと幅広い使命が今日、私たちに要求されている。広がった人生観、デモクラシーの成長、他民族、他国民に対する知識の増大とともに、孔子の仁の思想――あるいは仏教の慈悲の思想もこれに加えるべきか――はキリスト教の愛の観念へとつながっていくだろう。 人はもはや臣下以上のものとなり、市民という存在に成長した。否、人は市民以上のもの、すなわち人間なのである。現在、戦雲が日本の水平線上に垂れこめている。だが平和の天使の翼がこれを吹き払ってくれることを信じよう。世界の歴史は「優しき者は地を嗣がん」という預言を確信しうるものである。 生まれながらの権利である平和を売り渡し、産業振興の前線から退いて、侵略主義の戦略に加わるような国民はまったくくだらない取引きをしているのだ。…… そして「詭弁家、金儲け主義者、計算高い連中」の新時代に入ったことのあかしであった。 |
ここに掲げられた「武士の訴えてきた使命よりも、もっと気高く、もっと幅広い使命が今日、私たちに要求されている」の文言の「武士の訴えてきた使命」を「軍隊の使命」に置き換えて考えるべきです。
そして、私達は「軍隊」よりも「孔子の仁の思想、仏教の慈悲の思想、キリスト教の愛の観念」が必要とされるのです。
なのに、小泉首相は
“自衛隊を(より判りやすい言葉である)軍隊に変える” |
等と何故発言するのでしょうか?
言葉で全ての事象が明確に定義出来るというのは錯覚だと気が付かないのでしょうか?
そして、今回の米国のイラク侵攻で“軍隊(武力)は、人々に幸せをもたらす事が出来ない”と判ってきたのに、何故、今多くの日本人は“「平和憲法」を改憲すべし!”との声を上げるのでしょうか!?
更に不思議な事は、新渡戸稲造が“「武士道」以上に私達に要求される”という「仏教の慈悲の思想」に最も近い位置にいる公明党(仏教(法華経)を信奉する創価学会を母体とする)までも、憲法九条の変更などの改憲を唱えるとは、一体どうなってしまうのでしょうか?!
勝海舟の「決して抜けない刀(自衛隊)」が、たとえ、憲法九条の第2項に違反していても、「丸腰(全く武装していない状態)」に到達出来るまでの、法華経が説く七喩の一つである「仮城」ではありませんか!?
(この件は、拙文《奇跡と仮城の平和憲法》を御参照下さい。)
そして、暴力的な米国などが、日本に対して“金よりも武力を出せ!”難癖を付け非難しても、日本は、法華経に称えられている「常不軽菩薩」のように、“私達日本は、軍備は持ちません。そして、あなた方の国も、又、世界のどの国も、いつの日か、武器、軍備を持たないようになります”と世界中を説いて廻るべきではありませんか!?
その結果、世界が“日本は「卑怯者の国だ」”と非難して来ようと、繰り返し繰り返し、“私達日本は、軍備は持ちません。そして、あなた方もいつかは、武器、軍備を持たないようになります”と世界中を説いて廻り、世界に「平和憲法の精神」を説き続けるべきではありませんか!?
(この件は、拙文《平和憲法は奇跡の憲法》も御参照下さい)
私は、カトリックだ、プロテスタントだ、原理主義だ、シーア派だ、スンニ派で、浄土真宗だ、天台宗等に分裂する宗教よりも、イエスや、ムハンマドや、ブッダ達の賢人の教えが好きです。
特に、今は亡き中村元先生が、解説し続けて下さった“ブッダのお言葉”に、即ち、”ブッダのお心”に、私は感銘を受けます。
しかし、如何に「政教分離」とはいえ、テレビなどでお見受けする公明党の幹部議員達の顔付が、“ブッダのお心”から程遠く離れて、脂ぎって見えるのが大変残念です。
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